日々、内省

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もしドラを読んで、「真摯さ」についてもう一度考えてみる。

もしドラが近くのカフェにあったから久しぶりに読んでみた。もしドラドラッガー著の「マネジメント」の入門書のような本だ。マネジメントの一節マネージャーの資質に「マネージャーとして最も必要なものは真摯さである」との言葉がある。僕がこの本を初めて読んだのは高校生のときだったが、この「真摯さ」を「しんげきさ」と読んでいた。僕にとって初めてであった言葉だった。この真摯さは「まじめであること、ひたむきであること」などの意味がある。この本をもう一度読んでみて、この真摯さについてももう一度考えてみたい。

 

高校生のぼくはこの真摯さについて、真面目に取り組むこと、という理解をしていた。目の前の仕事に真面目に取り組むことが、人を巻き込むマネージャーにとっては必要な能力であると考えていた。しかしこの理解では説明することができない部分がある。それはもしドラの最終章で、みなみが不純な動機で野球部を甲子園に出場させようとしていたことである。もし真摯さを真面目に取り組むことと理解するとしたら、みなみは真摯さを持たないマネージャーとなってしまう。

 このことを踏まえて真摯さをもう一度定義する必要があると考えた。真摯さはとは「自分が正しいと思ったことに一貫して真面目に取り組むこと」であると、私は定義したい。この「自分が正しいと思ったこと」は社会的な常識やモラルは関係ない。もしドラのみなみも野球部を甲子園に連れていきたいのは、自分の友達のことを喜ばしたいだけである、野球は過去のトラウマがあって好きではないと明言している。そんなみなみでも真摯さ持っていると言えるのは、不純な動機ではあるが、それが絶対に正しいと思ってることである。私たちは真摯さというと学校の宿題をしっかり出す、朝は早く起きて、私語もせずにひたする仕事に取り組む、一人の女を愛する、というイメージを持ってしまいがちだ。しかし真摯さとは他人に与えられたことを、期日通りに守ることや、ルールを守ることではない。自分で正しいと思うことがあることが大切なのである。もしかしたら正しいと思うことは「信念」などの言葉に置きかられることができるかもしれない。そして自分が正しいと思ったことを、口先だけではなく一貫して取り組んでいくことが必要だ。

 僕が注目したいのは自分の正しいと思うことは、世間に認められていなくてもいいことである。例えば悪の大王が、世界征服をすることが自分の正しいことである思っているとする。世界征服することは世間の常識からは明らかに逸脱してる。しかし自分の正しいことに一貫して取り組めることができることができれば真摯さを持っていると言えそうだ。確かにアニメの悪キャラのリーダーは信念を持って、本気で世界を自分のものにしようとしている。この姿勢こそが真摯さにあたるのだと思う。

 

この文章を書いているときに自分が正しいと思っていることは何だろうともう一度考えていた。良く分からないなあというのが正直な感想。僕は一発派手なことをして注目を浴びたいとは考えている。でもそれは他人からの評価軸なのでないかと思う。今の会社を大きくしたいとか、そんなことを思って仕事をしているわけでもないし、自分が何を正しいと思って行動しているかは良く分からない。

 でも自分が何が正しいと思うかは、自分の中で腹をくくって決めるしかないと思う。だから僕は今自分が正しいと思うことを決めたいと思う。

「自ら学びたくなる人間を増やすこと」

これだと思った。僕は小中高とあまり宿題を出さない人間だった。それは宿題が面倒くさいという理由が大半である。その一方で宿題をいつも律儀に出していた人間もいた。でもいつも宿題を出していた人間は自ら学ぼうという姿勢はなく、ルールだから、親に言われたから、とかの理由で宿題をやっているように見えた。事実そういう人間は学校の宿題以外は自分で取り組もうとはしなかったし、勉強をそつなくこなしていっていた。僕はこの姿勢にクエスチョンマークを投げかけたい。僕たちが学校という場所を通じて学ぶもっとも大切なことは使うことのない公式、なのだろうか?僕はそれよりも自分でもっと知りたいという気持ちになれる教育をしていきたい。これを僕の中で正しいと思うことにしたい。この思いに向かって一貫して真面目に取り組んでいきたい。